INTERVIEW<GIFTED designer/増﨑啓起>①これまでの変遷【Fuligo名古屋本店】


ジュエリーデザイナー兼クラフトマンの増﨑啓起。

主宰する福岡のアトリエ併設ジュエリーショールーム 「MEDIUM」を拠点に、ブライダル&ファインジュエリーラインの「YES」と、シルバーを主な素材とした現代における普遍性を再考するユニセックスなジュエリーライン「GIFTED」の2つのオリジナルブランドを中心に展開している。

今回は全3部に分け、一人の人間として、また一作り手として敬愛する彼の来歴や今に到る思考の断片にインタビュー形式で触れて行く。

第1部となる今章ではこれまでの来歴・変遷について話を聞かせてもらった。


※2011年_恵比寿limArt annexでのGIFTED展示会風景_1

※2011年_恵比寿limArt annexでのGIFTED展示会風景_2

窪田(以下K):個展形式での販売会は今年(2022年)が初めてとなりますね。 お付き合いも長くなって来ましたが、改めてこの機会に少し掘り下げた話をできればと思っています。よろしくお願いします。

増﨑(以下M):つらつらとメールで長文やり取りしたりは今までにもありましたが、改まってのインタビューは初めてで楽しみです。 こちらこそよろしくお願いいたします。


物作りを始めたきっかけ

K:物作りを始めたそもそものきっかけからうかがっていこうと思います。

M:どこからを「物作り」として捉えるかが微妙なところですが、俗に言う義務教育における図工や美術、技科の授業以外の非凡なシチュエーションで、、、という事であれば、札幌で陶芸家として活動していた叔母がやっていた陶芸教室で毎年夏休みに陶芸用の粘土を触らせてもらっていたというのがありますね。 何歳くらいだったのかはあまり覚えていませんが、夏休みの自由研究で焼き物を提出していた記憶があるので小学校に入ったくらいの頃だった気がします。

好き放題に僕がこね回した無垢の粘土を、教室の生徒さんが作ったお皿とかコップとかと一緒に焼いて送ってくれていました。 今考えると、スが入ってるだとかそういう基礎的な注意事項を完全に無視して作った粘土の塊を、よくも生徒さんの作品と一緒に焼いてくれていたなと今は思いますね。 スの入った無垢の粘土の塊とか、釜の中でもし爆発したら生徒さんの作品まで巻き添えに遭うので甥に対して寛容過ぎる叔母だったと思います(笑

K:それは初耳ですね。 中々稀なシチュエーション。 自分の手で作る事に興味・関心が芽生えた点の一片が陶芸っていうのはちょっと意外でした。 もうかれこれ四半世紀近くジュエリー制作に携わっている訳ですが、そこから何で貴金属の世界へ?

M:陶芸が必ずしも決め手になったわけではないと思いますが、うちは自分が望んだ玩具やらゲーム機やらをホイホイ買ってもらえるような家ではなかったので、昔から手を動かして何かしらを作って遊ぶような機会が多かったようには思います。

ジュエリーの世界へ踏み込んだのは1999年、16歳の時です。 中学を卒業して全日制の高校に入学したのですが、昔から所謂学業やスポーツは得意な方ではなく興味もなかったので、2ヶ月も通わずに中退して地元で似たような連中とフラフラして、翌年定時制高校に入り直したのですよね。

それで、日中はバイトでもするかという事で昔から習い事で通っていたりで馴染みがあった渋谷の宮益坂を登った先の青山通りの一本裏の道にあった全国2店舗の個人経営のなかなかレアなコンビニでアルバイトをしていたのですが、そのコンビニの近くにその後自分がジュエリーの制作職として働くことになった会社の本社ビルと路面店がありました。 そこのお店のイカついスタッフ達が自分の働いていたコンビニを毎日使っていたというのもあって、バイト帰りにそこのお店に頻繁に通うようになったのが最初のキッカケです。

そのお店はインディアンジュエリーを主軸に、メキシコで作られたコピー品を含む安価なシルバーアクセサリーや輸入雑貨、そしてその会社の社長が手掛けているオリジナルブランドのジュエリーがごった煮になったお店で、お店へ入ってすぐの所に社長の作業場がありました。 そこで彼が実際にジュエリーを製作している様子が見られるようなお店だったのですが、インディアンジュエリーをベースにしたブランドで全ての工程を板材や線材といった地金を加工して作るというスタイルだったので、目の前でみるみるうちにジュエリーが出来上がっていくのですよね。

その制作の様子を眺めているのが楽しくてバイト帰りに通い詰めるようになるのですが、ある日彼が「営業時間外だったらここ使わせてやるから何か作ってみればいいじゃん」と声をかけてくれて。

その数日後、作りたいペンダントのデザイン画のようなものを描いて持って行き、毎日かぶりつくように眺めていた作業台に座らせてもらって、彼から手ほどきを受けながら初めて自分でジュエリーを作りました。 昔の事なのでどれくらいの時間がかかったのかよく覚えていませんが、恐らく通算8時間程度の作業を2〜3日に分けて作り進めてペンダントを完成させたような記憶があります。 そこからその会社で働き始めるまではそんなに時間はかからなかったですね。 バイト帰りに立ち寄って、彼が打ち合わせとかで席を外す時に「ちょっとこれ磨いてみる?」みたいな感じで徐々に磨きの作業を振ってもらえるようになって、夏には定時制高校も中退してフルタイムでジュエリーの制作に没頭するようになっていましたね。

K:幼少期って遊びの天才ですからね。 あらゆる環境下でちゃんと娯楽を見出せるというか。 純粋に楽しめる事に貪欲。 そういった時期に手を動かして作ることに関心を持っていたって事も少なからず影響していたのかもしれませんね。 大きくないけど小さくもない物作りに対しての基盤があって、それがある種自発的に関わって行く方へ自然な因果で結び付いた感じで。

勿論これって人との出会いであったり関わりがないとこんなにトントンとは行かないかもしれませんが。

その後勤め出してからは長くこちらで従事されたんですか?

M:そうですね。 あまり平均的ではないというか、やや旧時代的な価値観の家庭環境で育った故の葛藤や苦悩も大きかったですけど、その反動か自分が楽しめる事には貪欲でしたし、複雑に拗らせた飢餓感みたいなものを常に抱き続けていた幼少期だったように思います。

なので、そういった色々な背景を引っくるめて16歳でジュエリーを足掛かりに社会に居場所を見つけられた事は運が良かったですね。 目的もなく高校へ通うよりも、原価数百円の銀の板が1時間で2万円のジュエリーに姿を変えるみたいな事が純粋に面白かったし、そういう作り手側に身を置けている事が小僧ながらに誇らしかったですね。 初めて自分で掴み取ったと思えるような自己肯定感を得られたというか。

僕より10歳以上だとか一回りも二回りも歳の違うスタッフや、お客さんも含めて自由で面白い人ばかりに囲まれて過ごしていたので、なかなか非凡で最高な青春時代だったと思います。

そこの会社には約2年ほど勤めて、ジュエリーの制作以外にもいろんな事を学びましたね。 地方へのテナント出店となればDIY工具を積んで現地へ行って1週間程度かけてお店を自分達で作るような社風のお店だったので、電ドリや丸ソーといった基本的な木工用の工具の使い方もそこの会社での在職中に学びました。 今のショールームは内装をほぼ自分達で施工しているのですが、そういった内装工事のノウハウのベースもその会社で学んだものと言えると思います。

退職のきっかけは日々の業務に対する慣れとか飽きとか、あとはちょうどそのタイミングで青山通りの裏手にあったお店のビルが立ち退きになって浅草橋へ移動したりとか色々なタイミングが重なったように思いますが、利益を追求して効率化を図ろうとした結果、10代の小僧目線で見ても商品のクオリティが明らかに下がっているのにしれーっとしている大人達を目の当たりにした時にある種の失望がありましたね。

それで、少し話が前後するのですがそこのお店にはその後で僕が通う事になった専門学校、ヒコ・みづのジュエリーカレッジの学生がお客さんとして来ていて。

その中に仲の良い奴が居たりして、自分が勤めていた会社ではインディアンジュエリーをベースとした彫金スキルしか学べなかったのもあって専門に行ってみても良いかな?と両親にポロっとそんな話をしてみたのですよね。そしたら恐らく多少は僕の中卒という学歴を憂いていたと思われる両親がもの凄いスピードで学校見学に行ったりしてて。 僕は学校見学も行かず入学間際まで迷いはあったのですが、ほぼ成り行きで専門学校に入学しました。 高校は行かずに専門学校には現役の年齢で入ったのですけど、我ながら有益な時間の使い方をしたと思います。

価値観が移ろっていく学生時代

K:10代で今の基礎になるノウハウみたいなものはごそっと体験した訳ですね。 専門学校へ進んでからはいかがだったんですか?

M:専門学校では下手に現場を知っていたせいで1年生の時は逆に燻ってしまって劣等生でしたね。 一応プロとしてやっていたみたいな自負や自尊心が強過ぎたのだと思いますし、自分が働いていた会社の社長は独学で彫金を学んだ人だったのですが、独学で仕上がってしまった人あるあるで、専門学校というものに対して否定的なマインドをそのまんま受け継いでしまっていたのですよね。

習ったってお前ら何もできないじゃんみたいな、何処か馬鹿にしている感じというか。 そういう人に付いて彫金を学び、社会における彼の実績も見てきていたので無理もないとは思いますが、担任の先生にはきっと随分苦労をかけましたね。

課題で何を作らされても、こんなシルバーのリング1個に1ヶ月もかけてたら商売にならんとか、先生方のグループ展を見ても作品の工数と販売価格がまるで釣り合ってなくて何かのボランティアなんだろうかこの人達は、、、位に思ってましたね。 1年目はどのコースに入学した学生も基礎課程というコースで制作やデザイン、マーケティングといった同じ課題に取り組むのですが「先生」と「生徒」という関係性というか、図式というか、そういった学校という社会においての大前提みたいなものを受け入れる事が出来なくて苦労しました。 ただ、高校で全く馴染めなかった反動か専門学校での生活は最高に楽しかったですね。 当初は2年制のコースで入学したのですが、その年の入学者で1番最後に願書を提出したのが自分だったみたいで、経験者でもあるしという事で「アートジュエリーコース」という入学時から3年制のコースを選考した学生が大半を占めているクラスに割り当てられたのですよね。 クラスメイトに恵まれた事が大きかったと思いますが、学校が楽し過ぎて、これだったら3年通っても良いかもなという、それだけの理由で3年制のアートジュエリーコースに転科しました。

K:専門学校では恩師と呼べる人との出会いもあり、その後海外へ目を向けていったとお聞きしていますが。

M:師であり、最終的には数少ない同志と互いに認め合っていた専門学校で出会ったその講師は、全く反りが合わなかった1年生の時の担任と同一人物なんですよ。 中村隆一郎というコンテンポラリージュエリーと呼ばれる分野で活動していた生粋のパンクスで、作家でもあり講師でもあったのですけれど、2〜3年目は1年目の基礎課程とは異なりそれぞれのコースで別々の課題に取り組むのですよね。

2年目の課題は彼自身が考案した課題も多くて、彼が投げかけてくる課題との相性がすこぶる良くて凄く乗れたというか乗せられたというか。 1年目がジュエリーを作るうえでの建前を学ぶ退屈な1年だったとすると、2〜3年目は明確な正解の無い自由課題メインみたいな具合で。 学校側の意図は横に置いて、僕としては自分の頭で考えて課題のテーマと何かしらの内的な取っ掛かりというか、それを作るための個人的な動機を見つけたら、あとはひたすら制作に取り組んで講評会でカマせば良いみたいな捉え方をしていて、正解を押しつけられるような授業は性に合わないけれども、好きに踊れ系の課題であれば得意だし無限に作れるみたいな感じでのびのびと制作に没頭できましたし、評価も上々でした。

それで、コンテンポラリージュエリーという分野を軸に間接的に現代美術畑に関しても学びの対象が拡がっていくのですが、それに伴って入学前に自分が頭までどっぷり身を沈めていた所謂コマーシャルジュエリーという領域が馬鹿馬鹿しく思えてしまったりして、完全に入学前と価値観が裏返りましたね。

アートが圧倒的に素晴らしくてコマーシャルは下らないみたいな。 今は何事も表裏一体で相互に影響し合っているもので、本来は分け隔てられない地続きの領域に隔たりを捏造して内輪ノリでよろしくやっている村社会的な場があちこちにあるんだなーという目線で冷静に色んな対象と距離を取りながら活動しているのですが、まぁ若かったので極端なのですよ。

そんなこんなでコンテンポラリージュエリーという分野にのめり込んでいきましたね。 コンテンポラリージュエリーについての詳細な説明は諸説あり何とも形容しようのない纏まらない部分も多く、僕自身がこう捉えているというものもあるにはありますが一応は進行形の分野でもあるので割愛しますけれど、当時少なくとも日本よりはドイツ、オランダを中心にヨーロッパの方が圧倒的にシーン、マーケット共に一定のサイクルが確立されていたので自然にヨーロッパに活動の拠点を作るにはどうすべきか?というマインドになりました。

ちょうど自分が3年生の時に、翌年開催されることが決定していた日・独・蘭の各国から3名ずつの若手作家を選出した国際交流展が開催される事になっていたのですが、日本からの代表として選出されたりして、トントントンと階段を登っていった感じでしたね。 希望者のみの参加でしたが、海外作家を招いてのワークショップも大きな分岐点でした。 オランダのPhilip Sajetという作家のワークショップに参加した時にPhilipが僕の作品を絶賛してくれて、その流れで当時アムステルダムにあった80年代からコンテンポラリージュエリーを取り扱う老舗のギャラリー、Galerie Louise Smitへ自分をフックアップしてくれたりとかもありましたね。 細々書くと色々あるのですが、要するに専門3年からその翌年は研修生としてもう1年学校に残り、在学中から海外での作家活動の足掛かりが掴めて国際交流展や企画展に参加したりと順風満帆にやっていたという感じです。

憧れと現実のギャップ

K:10代〜20代前半の内に様々な分岐点があり階段を数段飛ばしで上って行った訳じゃないですか。 でも、その後〝海外志向〟から〝日本の地に足を付けた現ブランド〟へと繋がっていく訳ですよね? 今の思想というか意識に至った経緯を聞かせて下さい。

M:ある種の海外志向から現在のスタンスへと変化するに至った流れとしては、専門学校で研修生を含め通算4年間通った後に6年程度の準備期間を経て、オランダの美大Gerrit Rietveld Academieのジュエリー科への入学と中退という出来事がありました。

専門学校在学期間からオランダへの留学と早期中退&帰国、また震災を経て東京から北九州へと拠点を移したり、その間にGIFTEDをスタートしたりという大きな流れがあるのですが、全てが地続きなので時系列が少々ややこしいのですよね。 順を追って専門学校を卒業した後の動きをご説明いたしますと、留学資金を貯めるために派遣社員で働きながら作家活動を継続していました。

その間のそれなりに大きな出来事としては、2005年にアムステルダムのGalerie Louise Smitで若手日本人作家のグループ展を企画してもらったり、2007年には恵比寿のgallery deux poissonsで初個展をやったり、その翌年の2008年にアムステルダムのGARELIE ROB KOUDIJSで個展をやって、ついでに美大の入学面接を受けて留学が確定したりしたのですが、後から振り返ってみると僕の場合は渡蘭を夢見てから実際に留学するまでに時間が空き過ぎてしまっていたためにオランダへ渡った時には僕自身の価値観が随分と変化してしまっていて学生としてアムステルダムに留まることができなかったというのがありますね。

コンテンポラリージュエリーという分野に出会った学生時代から専門学校を卒業して以降の数年間は、このフィールドこそが自分が骨を埋めるべき場所だ位に思っていて、ヨーロッパと日本のシーンを比較して自分が身を置いている日本という環境を激しく憂いたりしていたのですが、2009年に留学するまでに企画展や個展等で何度か現地へと足を運ぶうちに、当初は眩しかったヨーロッパのシーンに対する見え方が変わっていったというか、いつの間にか冷静な目線が備わってしまっていました。

K:憧れってある種の瞬発力から来る所がありますけど、間違いなく風化していくものでもあると思います。知れば知るほど鮮度が落ちるというか。

M:自分が知らなかった、初めて出会ったものに夢中になれるのって、ある意味では自分の無知さというのが必須みたいなところがあるじゃないですか。 それはそれで幸せな時間だったりもしますし、そういう出会い頭の初期衝動をエネルギーに変えてある程度のところまでは進めるのですが、結局は「眩しい」も「つまらない」も自分の捉え方次第だなというのを学びました。 隣の芝は青く見えるというか。どこの場所にもそれぞれの場所に根差した歴史の蓄積による現在地があって、それは一長一短で比較しても仕方がないというか、それぞれに上手く行っている部分や特異な点、問題点みたいなものがあるというのを思い知りましたね。

まぁ勝手に死ぬほど憧れて勝手に失望したりして、つくづく自分勝手な人間だなとは思うのですけれど、僕は自分が実際に経験したことを通してしか学びや変化の取っ掛かりを得られないタイプの作り手なのでこういう事をこの先も繰り返していくのだろうなとその時に腹を括った記憶があります。 ヨーロッパのコンテンポラリージュエリーシーンが抱えている問題としては色々とありますが、ある程度の共通認識として頻繁に耳にする問題点としては購買層が高齢化している事です。

僕自身もオランダへの留学と帰国を経験するまではそうだったのですが、2009年当時はまだまだ多くの作家がその偏った購買層へ向けて作品を作っているような状況でした。 「ヨーロッパのコンテンポラリージュエリーシーン」というものを遠くから引きで眺めた時に何となく「こういうシーン」という手触りというか、漠然とした印象みたいなものが2000年代にはあった(個人的には当時からそんなに大きな変化は無いように見えますが、今は今であると思います)わけですが、その印象の内訳はほぼ無意識的に作家達が特定の狭い購買層へ向けた作品を作っていた事による足並みの揃い具合だったのだなという風に僕は捉えていますね。

どこかしらの世代にまとまった購買層が存在するとして、その層へ向けて作品を作ること自体は別に悪い事ではないとは思うものの、本来は幅広い年齢層で構成されているはずの作家勢がこぞって特定の購買層へ向けて作品を作るという事を数10年に渡ってやってしまうとどうなるのかという話にもなるのですが、分野そのものが形骸化しますよね。リアリティを欠いてしまうというか、時代性と齟齬が生じて来るというか。

何度か留学前に現地へと足を運ぶうちに何となくそういう空気を感じ取ってしまっていたので、専門学校を卒業した時点では「ヨーロッパに永住したい!!」という強い執着を抱きながら留学へ向けて準備を進めていたものの、徐々に気持ちが尻すぼみになっていき、実際に留学へと向かった際にはどんなに居ても3年、早ければ1年かな、、、というモヤモヤした気持ちでオランダへ飛びました。

なので、オランダへ飛んだ時点でもう既に現地への憧れみたいなものは皆無でしたね。ヨーロッパへの移住を夢見た19歳の頃の自分との約束を守るためだけに行ったと言っても過言では無かったと思います。 そもそもオランダの美大の教授勢や作家連中、ギャラリストからは受験する前から「お前今更大学とか通う必要ないじゃん」て言われてはいたのですけれど、どうしても執着があったのですよね当時は。

唯一オランダで確かめたかった事としては、上に書いたようなコンテンポラリージュエリーシーンが抱えている問題点みたいなものを、現地の作家や関係者はどう捉えながら活動をしているのかというのを確認する事でした。 結論から言うと、共通認識としては多くの作家やギャラリストが問題を認識しながらもシーンが数10年かけて積み重ねてきたサイクルというか、遠心力に基本的には身を委ねているようには見えました。

僕が入学したGerrit Rietveld Academieのジュエリー科では、現役のコンテンポラリージュエリー作家やギャラリスト、ジュエリーに限定しない多様な経歴を持つ講師がそれぞれ担当の授業を受け持っていたのですが、その講師の中に2019年に閉廊するまでアムステルダムで43年に渡ってギャラリーを運営していたGalerie RaのPaul Derrezが居ました。 彼の最初の授業は実際にGalerie Raへジュエリー科の学生が集まっての授業だったのですが、学生に対しての最初の授業で彼はその当時から問題視されていたコレクターの高齢化の問題を学生に直々に伝えていたのですよね。それに加えて、ギャラリーというスタイル自体がもう既にオールドスクールな業態で、自分は自分のギャラリー運営を全うするけれど君達は視野を広く持って他の道を探して、自分達のジェネレーションへ向けて作品を作りなさいという芯を食った事を言っていて凄く感動しました。 世代間でつまらないいがみ合いをしているような国しか僕は知らなかったので、こんなに上の世代が自分達の反省を下の世代へ忖度なく伝え、引き継ぎというか、積極的に世代交代を促しフォローまでしようとしている様子は衝撃でしたね。

それを聞いて、やっぱりそうだよね、、、と凄く腑に落ちるところがあって、自分の中でモヤモヤしていたものが急にクリアになって、同時に自分自身が日本に居ても実感し難い己の存在意義みたいなものをヨーロッパのシーンに委ねて甘えていた事を痛感しました。 その後、日本へ戻ってからどうするかというのをその時点で決められたわけではないのですが、Paulの授業に出てから帰国の決断をするまではすぐでしたね。ちょっともう当時の記憶も薄れていますが、下手したらその日の夜には帰国する事を決めていたのではないかと思います。 それから帰国するまでの期間は現地で出会ったジュエリー科の学生や教授、ギャラリー関係者全員に対して拙い英語で一生懸命メールで事の経緯を伝えたり直接会ってお茶を飲んだり何だりして、日本を離れてオランダの地を踏んでからちょうど1ヶ月で帰国しました。

※2009年_アムステルダムでの留学時に滞在していた飾り窓地区の居住スペースからの眺め

日本から船便で送った自分の荷物が届く前に中退して帰国してしまったので随分と無駄な船便運賃も払いましたし、日本を出る前にはそれまで自宅にあったアトリエスペースも完全に解体してしまっていたので帰国してから制作を再開できるような環境を立て直すまでには色々と大変ではありましたが、一応はそれまでの日本の拠点を完全に潰して退路がない状態でオランダへ渡った事も、その後1ヶ月で中退して帰国した事にも何一つ後悔は無いですね。 寧ろ、すべてのタイミングと決断が完璧だったとすら思います。 短い期間ではありましたけれど、リートフェルトで知り合った同世代の若手作家の何人かは今自分が見ても刺激を受けるような新しいアプローチで作家活動を継続していたりしますし、その中にはGIFTEDの関東唯一の取り扱い先でもあるCIBONEで10数年越しで作品と再会するような作家も居たりして、離れていてもそれぞれ別の場所で10年以上も手を動かし続けていて、こうして当時は思ってもみなかった舞台で再会できるなんて最高だなと思います。

K:結果として今は後悔もなく「歩んできた道程は間違っていなかった」と言えると思いますが、当時のその瞬間は一つ神様の様に信仰してきたもの(憧れ)を取り上げられたに等しかった訳じゃないですか。帰国後はスムーズに適応できたんですか?

M:その先どうなるのかは何も分からなかったですけれど、1ヶ月で中退してすぐに帰国したというキャリアの方がストーリーとして面白いし、その決断が将来的に効いてくるだろうなという謎の確信めいたものがあったのですよね。ある種の信仰を取り上げられたような感覚みたいなものも無くはなかったように思いますが、それ以上に全部を手放す事による開放感の方が大きかったような記憶があります。

2009年の秋頃に帰国してから翌年の2010年はリハビリの1年でした。帰ってきたものの、ここからどうしたもんかなー、、、というのをじっくりと考える1年と数ヶ月でしたね。 6年越しで準備したものを1ヶ月で力技で折り畳んで踵を返したわけなのでそれなりに疲れてもいましたし。 帰国してから2010年にかけてはそこまで積極的に作家活動をするでもなく割とのんびりと過ごしていたように思います。時々カバン作家のカガリに誘われた企画展に参加したりとかはしてましたが、能動的なアクションはこれといってなかったように思います。

話が少々戻りますが、僕はコンテンポラリージュエリーにのめり込んだ際にそれ以前の自分というものを完全否定してしまっていたのですよね。要するに商業的な領域に心底うんざりしていたというか虚しさを感じていたというか。 今振り返るとそれはそれで随分極端な揺り戻しだな、、、と冷静に思ったりはしますが、若かったので何するにも極端なのですよ。 大きく変化するにはそれ以前の自分を全否定、自分が身を置いていたシーンも全否定みたいな具合だったものですから。

しかも、自分の日本での制作拠点は潰してしまっていたし主要な工具類は船便で送ってしまっていて手元に戻って来るにも数ヶ月かかるような状況でしたから、心身共に完全な丸腰状態でしたね。 コマーシャルジュエリーを捨てて踏み絵にしてコンテンポラリージュエリーにのめり込み、それなりに結果も出せていたけれども、またそれすらも手から滑り落ちてしまい自分に何も無くなったというか、通ってきたものすべてからただ遠くなってしまったというか。 それで何だかモヤモヤとしながら日々をやり過ごしながら自分とジュエリーの最初の接点を振り返った時に90年代を席巻していたシルバーアクセサリーのムーブメントと再び向き合い直すことになりました。

そうなってみて改めて日本におけるシルバーアクセサリームーブメントを見直してみると最早焼け野原と化して久しく、20年近く何も更新されずに捨て置かれたようなシーンが転がっているように見えたのですよね。 そうなると、曲がりなりにも自分が影響を受けたムーブメントを更新してみたいような気がしてきたりして、当時仲の良かった友人2人を誘って2011年の元旦にGIFTEDを発足しました。

※GIFTED設立メンバー_恵比寿limArt annexでのGIFTED展示会にて(2012年、増﨑の北九州への移住を機に3人体制のGIFTEDは事実上の解散となり現在は増﨑が単独でブランドを継続)

「答え合わせはまぁここから更に10年後とか、20年後」

M:ある意味ではコマーシャルジュエリーからこの世界に入りコンテンポラリージュエリーへとのめり込み、両方から遠ざかって再びコマーシャルジュエリーに戻ってきたような具合です。 コマーシャルとは言っても昔のように何かを真に受けるようなことはなくて、あくまでコマーシャルジュエリーのような振る舞いを意図的にして、パフォーマティブに「ブランド」という仕草でジュエリーを作るようになったという具合です。

何というか近年は「ブランド」とか他の何かしらの分野とかあらゆる対象を素直に自明のものとして受け止めることが出来なくなってしまっているんですよね。 「GIFTEDというブランドをやっています」という事ですら、いや、商標も取ってますしやってはいるのですけど自分自身それを凄く俯瞰して眺めてしまっているというか、自分が作った物を社会に着地させようとした時に作家という存在が今ひとつ朧げな日本では、特にジュエリーという分野においては「ブランド」というある種のフィクションを社会で機能させる事がそれなりに重要だし、日本的だなという結論に至ったのですよね。

だからGIFTEDは増﨑啓起という作家が仕掛ける社会実験でありフィールドワーク、メディアアートみたいなものかもしれません。 ただ、GIFTEDのジュエリーに触れてもらうお客さん全員にその背景を全て理解して欲しいとは思いませんね。興味を抱いてくれるお客さんに対しては掘ればきちんと奥行きがあるような活動を積み上げてきているつもりですけれど、物を見て単純に「カッコいい」で手に取ってもらって片付けてもらうのでも全然構わないです。

作品見てもサッパリ分からんけどコンセプト聞いたらフワッと「良い」とか「深い」とか、それも場合によっては悪くはないのですけれどGIFTEDはあくまで素直に僕の理想とする着用を前提としたジュエリーを作っているので「着けたい」という最もジュエリーにおいて大切な領域で機能する事に重きを置いています。

K:個人の体感における根幹というか、最も内発的で身近な所にピントがあった訳ですね。

M:何事にも必要なのは然るべきタイミングでの揺り戻しじゃないかなと思っているところがあって、僕自身がやっぱり着けるのが好きなので、自分が欲しい、着けたいという動機で作るのが一番嘘がなくて良いなという風に思いながら今は作っています。 あとは、ジュエリーのクオリティ面に関して言えば古き良き雰囲気重視のシルバーアクセサリーというよりは完全にエルメスやティファニーといったビッグメゾンのシルバー製品のクオリティというのを課していて、そういった質実剛健な物体としても時代を越えていけるような強度を備えたジュエリーでありながら、やはりコンテンポラリージュエリー的な側面から見ても意味を読み取れるような批評性を兼ね備えた活動をGIFTEDではやっていきたいですね。

なので、GIFTEDに関しては近年ブランドプロフィールで記している「数十年に渡って流通し続けるヴィンテージや民芸品としてのジュエリーにおける構造や様式を包括的に参照し、複数の異なる価値観を調和あるいは脱構築することにより現代における新たな普遍性を備えたジュエリーを追求している。」というのがちょうど良い具合に的を得ていて、日本でのGIFTEDとしての活動を将来的にコンテンポラリージュエリーの文脈に再接続させる事もできるような気はしていますし、そういう方向へ包括的に自分の活動を束ねて行きたいと現時点では考えていますけれど、色々と上手く行ったり行かなかったりあるでしょうし、答え合わせはまぁここから更に10年後とか、20年後とかになるのではないかなと思っています。

ある意味で亡命に似たような心持ちでヨーロッパのコンテンポラリージュエリーシーンへと居場所を求めた約10年を経て、自分が生まれ育った場所や、見るともなく自然に目にしてきた景色、実際に触れたり影響を受けてきた時代性を伴った地場のカルチャーですとか、そういった自分の身体性が伴った活動にシフトした結果が現在地という事になります。



第2部では素材への向き合い方、延いてはオリジナリティについて話をうかがっていく。

INTERVIEW<GIFTED designer/増﨑啓起>①これまでの変遷

INTERVIEW<GIFTED designer/増﨑啓起>②素材とオリジナリティ

INTERVIEW<GIFTED designer/増﨑啓起>③理想とするジュエリー

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