Kuraishi Takamichi 個展「祈りのジュエリー」【Fuligo本店】

Kuraishi Takamichi 個展
2025.6.7 ― 2025.6.22
Kuraishi Takamichiによる個展が今週末より始まります。
当会期では昨年から意欲的に制作しているペンダントトップ「護符」をはじめ、当作家の代名詞でもある「巡る指環」を多数並べてご紹介。
仄暗い空間に「特別なものへ成りうる物体」をただただ静かに並べお待ちしています。
Kuraishi Takamichi 個展「祈りのジュエリー」
会期:6/7(土)~6/22(日)
店休日:金曜日
作家在店予定日:7,8

















中世ヨーロッパで行われた思考実験が由来と云われる「ビュリダンのロバ」という話がある。
お腹を空かせたロバが左右2方向に道が分かれた分岐点に立っており、双方の道は「完全に同じ距離」の先に「同じ量の干草」が置かれている。
この場合ロバは「左右どちらの道も選べず餓死してしまう」という意思決定論を論ずる場合に引き合いに出される例え話である。
- 右の道を進み干草を食べる
- 左の道を進み干草を食べる
- 立ち止まったままで餓死する
このケースの場合上記3つの選択肢が考えられる。
3つ目の選択肢は他に比べて明らかに痛みが大きい筈であるが、最初の2つにはいわゆる「選択の壁」があり、その壁が餓死を被る痛みよりも大きかった為ロバは3つ目を選んだと想定される。
「選択の壁」の正体としてはいろいろ考えられる所であるが、例えば以下の2つが挙げられる。
- 選択を誤ったという痛み
選択を行った場合、かなりの確率で「別の道が良かったのではないか」という後悔・不安の念に駆られ、時にそれは大きな「痛み」となる。
本件の場合、1と2に優劣を判定するに足る因子が全くない事から、どちらかを選択した場合、このような痛みが生じる可能性が高いことが想定される。 - 選択する因子の不在
例えばシステムを構築する場合、- Aの場合⇒甲
- Bの場合⇒乙
- それ以外の場合⇒甲
「いかなる場合でも、必ず選択の因子を探し出して選択せよ」という生きるための本能かもしれない。
本件の場合、選択の因子を見つけられずデッドロック状態に陥ったと想定される。
この因子は何でも良い。
例えば「えさ台の色が右の方が好き」とか「左よりも右の方が好き」とかでも構わないが、それらが一切ない場合に起こりうるケースである。
これらの壁を克服するために人間が編み出した方策として棒倒し・鉛筆転がし・コイントス等が挙げられる。
「棒がこちらに倒れたから」とか「神のお告げがあったから」等により、1の痛みを和らげ、2の因子を作り出す。
いわゆる「餓死」を避けるための方策であるが、ロバにはこの様な方策を編み出す能力がない為にこの結末を回避出来なかったという訳である。
また、3つ目の選択肢(餓死)は先の2つの選択肢(左右の選択)と異なり「不作為」であることが特徴である。
もし仮に、3つ目の選択肢にも大きな壁があればロバは最初の2つの選択肢のどちらかを選択する事もあっただろうが、「不作為」には大きな壁はなく選択し易かったという要因が考えられる。
※Wikipedia参照
今回の個展を想像した時、ふとこの話が浮かんだ。
理性や理論によるテンションが高まれば高まるほど盲目的な倫理観が自身の首を絞めかねないし、先の言葉を借りるなら選ぶ為の因子を殺してしまいかねないというざっくりまとめるとそんな一種の戒めの様な話だが、これが脳裏に過ったのは「望む自由をもっと放し飼いにしたい」という個人的な願望や祈りみたいなものが、彼の作るジュエリーを選ぶ行為と何となく重なったからなのだろう。
一見何でもないような倉石さんの作品はいつも僕の内なる哲学を感覚的且つ突発的に揺さぶる。
生きれば生きる程賢くなってきたつもりだ。
ただ同時に生きれば生きる程不自由になっている気もする。
もっともっと賢くなれるが今よりずっと不自由になる2択が今後ずっと続いていくとするなら、今現在が残りの人生中で最も自由だという事になるし、選択する事で生じる代償は果たして見合ったものなのかを考えたい。
何の為に賢くなるのか?
「選択の壁」を越えて前へ進むには先ずここをクリアにしないといけない。
こんな事をぐるぐる考え巡らせていく事はひたすらにリールを巻き取っていく行為に近い。
思考の糸はどんどん張りつめてキリキリ音を立てる。
理性はそうやって育ち、自由はそうやって細くなっていく。
改めて考える。
果たして本当にこの道(2択)しかないのか?
そもそも人生は一方通行なのか?
一方通行じゃないのなら、今いる場所が袋小路じゃないのなら、もう一度来た道を戻る事だってできるんじゃないか?
ここまで続いてきた道も選択の連続上で成立しているのだから、通って来ていない道を選びながら戻ることも、来た道を戻ってから選ばなかった道を選択し直してもいいのではないか?
作家である森博嗣さんの著書「笑わない数学者」の作中にこんな一節が登場する。
「左右だけが、定義が絶対的でないからです。上下の定義は空と地面、あるいは、人間なら頭と足で定義されます。前後も、顔と背中で定義できます。では、左右はどうでしょう? 左右の定義は、上下と前後が定まったときに初めて決まるのです。人間の体型が左右対称ですし、歩いたりするときも横には動きません。上下と前後の定義が独立していて、絶対的なものであるのに対して、左と右の定義は相対的です。この定義のために、鏡で左と右が入れ替わるんですよ。」
瞳が向いている方向へ進む事を前進とするなら、180°踵を返して戻る事も前進だ。
そもそも目の前の選択肢(左右)を定義する為の要素(上下前後)は精神の中に存在しているのか。
自由を放し飼いにするという事は、精神におけるこの全要素からの脱却を指す。
星の無い宇宙で肉体を持たずにただ穏やかに浮遊するような、そんな心を作りたい。
その心は恐らく何よりも自分らしいものだと思う。
そして出来るなら、理性から解き放たれたものにその心で触れたい。
今回の個展を想像した時、ふとそんな事を考えた。
こういう妄想は膨らむだけ膨らんで、明確な結論を大体よこさない。
なんか脱線した挙句この個展と関係ないなぁ、と想った。
あんなに必死に巻き上げたリールの先に獲物の姿はもうない。
つい先日、今年の個展のタイトルが決まったと倉石さんから連絡があった。
「祈りのジュエリー」
なんだか僕の頭の中を見透かされた様に感じるのと同時に、僕がずっと彼のジュエリーが好きな理由が理性なんかよりも遥かに直感的なものなんだと改めて悟った。
漂う葛藤の痕跡や、無骨だけど温かみのある輪郭線や。
無いようで在る因子に本能的に反応している。
理性から解き放たれたその物体に心が躍っている。
「このとてつもなくピュアな造形に自身の祈りをずっと重ねているんだな。」
そう思い至った時、釣り上げられたのは自分自身だったと気付いた。
僕は餓死を選べない。
生きて見たいもの、生きて手に取りたいもの、生きて会いたいものがあるから。
窪田
<Schedule>
6/7 – 6/22:kuraishi takamichi
6/28 – 7/13:Fillyjonk
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